グリーンチャンネルの「ケイバどーも!」の中に本欄でたびたび触れている「須田鷹雄の『今日は何の日?』」というコーナーがある。

これは番組の放映日の過去にどのようなことが起きたかを紹介するものだ。

須田氏によると過去に発生した適性な案件を探し出すのはなかなか大変で、もちろんマイナスなことを紹介するわけにはいかないとのことだ。

かなりマイナーなことを紹介することも少なくないが、それも仕方がないということだろう。

7月23日には1995年に武豊騎手が1000勝を達成したことが紹介された。しかし本欄で触れるのは武豊騎手ではない。須田氏は福永洋一騎手に触れペース的にはもっと早かったようだとしている。

現在では福永洋一騎手の現役時代を知っているファンは少なくなり福永祐一騎手の父親として知られているが、しかし福永洋一騎手は本当の天才だった。

1970年から78年まで9年間年間リーディングを続けた。21歳から30歳の間だ。リーディングだけではない。ニホンピロムーテーでの菊花賞やインターグロリアでの桜花賞など思い切った騎乗でファンを驚かせたのである。

私が初めて関西の競馬に行った際、スポーツ紙だったか専門紙だったかに「今日の洋一」といった欄があり驚いたものだ。

関東ではまだ騎手は調教師に所属し主にその厩舎の馬に騎乗していた。

アローエクスプレスがまだ新人だった柴田政人騎手から加賀武見騎手に乗り替わったことが大きく報じられたが、それが珍しいことだったからである。

現在では騎手はほとんどフリーとなり有力騎手に騎乗が集中しているが、当時は福永洋一騎手だけが実質フリーだったといえる。

武豊騎手も天才といわれるがむしろ名人というのが正しいのではないか。天才とは福永洋一騎手ではないかと思うのである。

武豊騎手は1969年生まれで1948年生まれの福永洋一騎手とは21歳違いだ。もし福永洋一騎手が50歳くらいまで騎乗できたとしたら武豊騎手の記録の伸びはもう少し遅くなったかもしれない。

私が福永洋一騎手の事故を知ったのは競馬場でも自宅でもなくなんと国立競技場だった。1979年3月4日。

この年はサッカーを見る年としていた私はサッカーの日韓定期戦観戦に行ったのだった。

競馬とサッカーの共通の知人と試合終了後に偶然ぶつかり、洋一が大変らしいと聞いたのである。おそらくラジオで聞いていたのだろう。

日本代表戦で簡単に知人と会ったというのは現在ではとても考えられないが、当時は日韓戦といってもそれほどがらがらだったのである。




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